見えない何かを信じるということ

私mzは『氣』を感じることができる。
が、それも他人の氣がどういう状態かはヨクワカラナイ。自分のだけ感じ取れる。感じ取るというのも掌に、要は触覚であって視覚には感じられない。
それより肝心なのは、立禅などした際に感じられるだけで、飛ばしたり当てたりなど制御できるわけじゃないということ。

考えてみれば不思議なもので。

目には見えない力を当然あるもの、『存在する』と信じ切っている。
私はどちらかといえば無神論者だ。唯物論者ではない。
目に見えないオカルトなど基本信じないが自ら経験した事象なら信じる。そんな人間である。

そもそものこんなこと書いてる理由が、昨夜寝る前のタントウコウ中にふと思った

(氣を信じるのと神を信じるのって似たようなことなのでは?)

であり、今回思考の定型化としてこれを記してる。

目に見えず、存在するもの

確認しようがないから存在しないかといえば答えはNoだ(ノットトレジャーハンター風)。目に見えなくても存在するものはたくさんある。
氣に関して言うなら、他の人の氣を感じられたり目視できる人もいるわけだ。が、大半の人はそうじゃない。
そうじゃない人達からしたら、私が氣を感じられると言ったところで知覚できないし「なんだコイツやべー奴やん」になるだろうことは明白。

この「やべー奴やん」の感覚、宗教に傾倒してる人へ感じる印象と似てる。道端で幸せをお祈りして手をかざしてくる人とかああいう。
アレ氣を吸い取られるから受けないようにな。

あんなもんと氣の存在について等価に見られるのは甚だ不本意だが、客観的にはそうなんだろう。
んでもうちは大衆に迎合しない部分あるから、そーいう少数の間でのみ流通する価値って好きよ。
不確定であやふやなものを信じてる、ということになるのだろうか。
私にとったらあやふやではあれど不確定ではないから、世間の評価なんて無意味ってことだな、うむ。

まー氣が感じられる、氣を集中できるとか。何かいいことがあるかって、ちょっと体によかったり運気が上がったりと些細なもの。
それがために世間からやべー奴扱いされるというのは、見る人が見ればしょうもないことである。そう考えると他人に宗教ゴリ押す輩とかスゲーな。

着地点

「そーゆー見えないものに対する信仰は、基本ひっそりやろうな」

が優等生的結論。
別にその道の大家をdisってるワケじゃないぞ。どうしたって胡散臭いからだ。

でも価値観って時代で変わるものだから、問題の氣だったり宗教だったりがいつしか市民権を得て、外聞を気にせずともよい存在になる日が来るかもしれない。
私は現段階で胡散臭い存在だから氣のシンパであることに憚らないけれども!

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